「がんの末期」と鍼灸の相性
- kazzh14
- 11月4日
- 読了時間: 12分

1.初めてのがん患者―「何をすればいいんだ?」
「お前の母ちゃんよ。心臓は右にあるって俺さ言ったんだ。
んだがら俺『心臓は左でないのが?』って聞いたらよ、なんて言ったと思う?」
「なんて?」
「『そういうこともある』って言ったんだぞ。ははは」
肝臓がんで末期の人が、新米鍼師の緊張を解そうと、
そんな冗談を言ってくれた。
しかし、その冗談が耳に入らぬほど、私は緊張していた。
自分に何ができるのか、そればかりを考えていた。
その人は父の無二の親友で、我が家を間借りして建築事務所を営んでいた。
豪放磊落で、いつも威勢のいい冗談を飛ばしては周囲を和ませる人だった。
そんな彼ががんに倒れ、「鍼灸でできることは何かないか」と治療を頼まれた。
往診には行ってみたものの、命がかかった病人を前に、私は何もできなかった。
肝臓がんという病気に、鍼灸で何をすればいいのか、どんな症状が緩和できるのか、
鍼灸師として責任ある対応とは何か、何一つ教わったことがなかった。
鍼灸専門学校の教育だけでは、実際の臨床には役に立たなかった。
修行する場にも恵まれずに開業してしまったのだから、当然の結果だった。
これが、私とがん患者との最初の出会いだった。
2.がん界隈の狂気
我が家は当時、健康食品を扱っていた。
羽振りのいい農家のご夫婦がいて、高価なエキス剤を気前よく買ってくれた。
しばらくして、奥さんが肺がんであることがわかった。
当時は、抗がん剤に対する信頼が低く、
「使っても苦しんで死ぬだけだ」と信じられていた。
その反動で、健康食品や民間療法に救いを求める人々が多く、
うちの店も結構流行っていた。
医学の素人である両親は、観念的な健康論を信じ、
その奥さんへの吸い玉治療を始めてしまった。
やがて「お前が治療しろ」と、私にその患者を振ってきた。
きれいな奥さんだった。
「お金ならいくらでも出すから治してくれ」と、必死な旦那さんの姿が痛々しかった。
そんな中、父は吸い玉治療の提唱者を招き講習会を開いた。
バブル期の健康ブームの中、二百人もの人が会場を埋めた。
講師は壇上で、「この治療法で癌も治る」と豪語した。
会場は異様な興奮に包まれた。
午前の講義が終わり、控室で昼食を取っていると、
あの農家の旦那さんが、どうしても講師と話をさせてほしいと懇願してきた。
「先生、肺がんの家内をどうか助けてください」とすがりついた。
それに対し講師は、
「何言ってるんだ。これまで身体に悪いものをさんざん食べて癌になっておいて、
今さら俺に治せとはどういうことだ。俺にそんな輩を助ける義理はない」
その場にいた全員が凍りついた。
私はそのとき思った。
―こういう切り返しを持っているから、あれだけ無責任なことが言えるのだな、と。
この一件で、私は実家の店を継ぐ意思を捨てた。
ほどなくして、奥さんは亡くなった。
当時は、こうした“運命にあらがう人”が美談として語られた。
医師が余命を短めに伝えて医療トラブルを避けようとする傾向もあり、
亡くなる前に財産を使い果たす人が現れるなど、社会全体が混乱していた。
がんの周囲では、いつも何かが狂っていた。
その渦の中で、
「人が死と向き合ったとき、本人は、医師は、鍼灸師はどうあるべきか」
その問いへの答えを、探さなければならないと思った。
3.答えを求めて医療現場へ
両親の反対を押し切り、行き詰まった治療院を畳んだ。
そして、鍼灸師に病院研修の機会を与えてくれる代田医師のもとへ弟子入りした。
研修2年目からは、入院患者の経過を追う病棟研修が始まり、
がん患者を担当する機会も増えた。
当時はまだ「告知しない医療」が主流で、
患者に病名を悟らせないことが“医療者の心得”とされていた。
当初は私も懸命に、そう務めた。
だが、ある日患者に不意を突かれた。
「俺、癌だよね」
「えっ……」
「ああ、いいんだ。どうせ言えないよね」
―しまった。
4.告知をしない残酷―「孤独な死」の現実
患者はどうにかして真実を知りたがっていた。
運命の日を前に、家族や親しい人と腹を割って話したがっていた。
しかし、誰も患者に心を開いてはくれない。
それが、がんで亡くなる人の現実だった。
孤独の中で亡くなっていく患者達を見送りながら、
「これが医療として本当に正しいのか?」と疑問を抱くようになった。
ある日、カンファレンスで、「患者の希望の灯を消さないためには、
『この人は本当に癌ではない』と自分に言い聞かせてから病室に入る。
そうでないと、患者に悟られてしまう」
と言った代田医師の言葉に、思わず私は反論した。
「明らかにこの患者さんは自分が癌だと分かっていて、
それを前提にしたやりとりを望んでいるのに、
なぜそれに答えてはいけないのですか?」
代田医師は、
「一見『自分が癌なのは分かり切っている』と言わんばかりの患者がいても、
内心間違いであって欲しいと最期まで望みは捨てていないことが多いものだ。
『この人は大丈夫だ』と思って癌を認めた途端、
ガタガタと悪化していくことを経験するもので、
やはり最期まで希望を断ち切る事はしない方が賢明だと思う」
長年の経験から語られた言葉ではあったが、私は頷くことができなかった。
そんな中、肺がんで肋骨に転移した患者に鍼をしたら、痛みが軽減した。
――癌の痛みにも鍼が効く。
そのことを知った。
だが、死期が迫ると、鍼も薬も効かなくなった。
代田医師は言った。
「痛みが減ったからといって、癌じゃないとは言えない。
常に見落とさない注意が必要だ」
診断権も検査のオーダー権も持たない鍼灸師が、どうやって見落としを防ぐか。
その課題に、私は真剣に向き合い始めた。
5.癌を見つけては病院に送る日々
病院研修を終えて再開業したとき、私の診断能力は格段に上がっていた。
来院者の中から次々とがん患者を見つけ出し、
医療機関へつなぐことができるようになった。
ある日、「ちょっと思い出して寄ってみた」と老女が来院した。
要領を得ない話を聞きながら身体を診ると、腹水が溜まっていた。
本人も薄々わかっていながら、家族にも医者にも見せず、不安の中で耐えてきたのだろう。
「病院で診てもらったらどうか」と勧めても嫌がる。
私は家族にも声をかけ、どうにか説得して受診させた。
診断が下り、自宅療養となって往診を頼まれた。
またある日、幽霊のように青白い老婆が、お経を握りしめて待合室に立っていた。
3年前に胃がんの検査を勧められて以降、医療を避け、
信仰にすがって現実から逃げ続けた慣れの果てだった。
横になれないほど腹水が溜まり、「死の宣告」をしない鍼灸院にすがってきたのだろう。
付き添いの息子もまた、親と考え方は同じだった。
「病は本来ない!」そう教える教団の、我が家も信徒だった。
見慣れたお経を握りしめ「病はない。病はない」と唱え続ける親子を見て、
信仰と医療のあり様もまた、考えねばならない課題だと思った。
治療の合間に紹介状を書き、患者の手を握って言った。
「お腹の水を抜いてもらうと、横になって眠れるようになるから。一緒に行こうか」
―ここで私が手を離したら、この親子はまたさまよう。
そう思い、病院へ同行した。
6.だまされたり、見落としたり
がんであることを隠して私に治療を受ける人も少なくなかった。
そういう時、決まって患者は不穏だった。
「なんか変だな、いつもと違うな」と感じていると、
後から家族に「実は癌でした」と知らされることもあった。
こうした経験を重ねるうちに、私は「癌を見落とさない」自信をつけ始めていた。
だが、その矢先だった。
常連の患者ふたりが、相次いで肝臓がんとすい臓がんだったと知らされた。
どちらも腰痛の治療で通っていた患者だった。
彼女らの心理的な訴えに気を取られ、長引く腰痛の裏に潜む病変を疑わなかった。
一人は亡くなり、一人は手術が成功して奇跡的に助かった。
「自信がついた時に落とし穴があるから、念には念を入れろよ」
そう忠告してくれた小児科のドクターの言葉が、むなしく頭の中でこだました。
―とうとう、やってはいけないミスを犯した。
自分はどこでおかしいと思うべきだったのか。
何度も自問自答した。
7.「どうせ救えないじゃないか」
よくよく考えてみれば、鍼灸師が癌の早期発見に寄与することは、まずない。
私たちにできるのは、すでに顕在化したがんを見落とさず、
医療介入を少しでも遅らせないことだけだ。
言い換えれば、それは患者を救うためというより、
道義的責任を追及されないための自己保身に過ぎない。
ならばこそ、もっと早い段階での発見をサポートできないものか。
私の新たな課題となった。
加えて、疑いをかけて医療機関に送れば「責任を果たせた」
と思っていることにも疑問を感じ始めた。
「もっと、鍼灸にできることはないのか」
8.「告知」という救い
そんなことで悩んでいたころ、
「先生、俺がんよ。治療されっか?」そう言って来院する者が出てきた。
「え、告知されたの?」
「んだ。医者がいぎなり、『がんです』って言うんだもん。びっくりした」
「本人に、いきなり?」
「んだ。いぎなり」
なんてひどい事をするんだと、始めの頃は憤っていた。
しかし2年もすると、世の中の空気が変わり始めた。
年寄りが集まる所で、こんな会話が交わされるようになったのだ。
「俺、膀胱がんでよ」
「なんだ、俺もだ」
「お前もが、膀胱がんってすぐには死なないもんな」
「んだ、死なね」
「俺は、前立腺がんだって言わっちゃ。今、血液検査で判るもんな」
「重粒子線で治っちさ。痛くもかゆくもねがった」
現代医学が、いよいよがんを抑え込み始めたのだ。
国の方針も変わり、癌の告知が日本でも当たり前の時代に入った。
そして、人々は意外にもあっさりとそれを受け入れ始めた。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ならぬ
「がん告知、みんなが受ければ怖くない」といった心境のようだ。
9.いよいよターミナルケア開始
ある電話をきっかけに、当院でがんを抱える患者と正面から向き合う時代に入った。
「先生、俺まだ生きったじゃ。米沢が恋しくて先生のところさ行きたくてよ。
また行ってもいいが?」と、半年前に米沢を去ったはずの人から電話が来た。
肝臓がんの末期となって、県外に住む息子の元に身を寄せたのだが、
友人もいない土地で死ぬのを待つだけの時間が嫌になり
「こんな事ならもう一度故郷で暮らしたい」と、
知人の協力を得て1ヶ月間の予定で帰って来るという。
主治医からは、「好きにしていい」と言われたので、
体調管理を鍼灸に任せたいのだそうだ。
長年治療してきた経緯もあり、不安はあったが私も覚悟を決めた。
3日に一度の来院として、その都度本人の訴えに沿った治療で対応した。
「左手が思うように動かない、腰、背中、肩が痛い、疲れた」などを訴えたが、
それなりに改善し、腹水やむくみも起きずに時を過ごせた。
23日目に熱が出て衰弱が見られたので、主治医にお願いして入院させ、
3週間後に息を引き取られた。
独り暮らしになっても、身の回りの世話をしてくれる教え子達が、
入れ替わり立ち代わりやってくるほど慕われた先生だった。
そうした人々の愛情に支えられ、本人の気がすむ形の終わり方だったと思う。
10.「怖いのも嫌、痛いのも嫌」―迷える心をなだめて
二人目の症例は、20年来鍼灸治療を愛用し、
先の先生を私のところに紹介してくれた教え子だった。
「先生、私が癌になったら、高野先生と同じように面倒見てね」と言っていた人に
卵巣がんが見つかった。
家族の多くが癌で亡くなり、その苦しみを見てきたので、
「怖い思いも、痛い思いもしたくない、唯々平穏に過ごして死ねたらいい」と言って
私の元に逃げ込んできた。
看護婦の長女が、治療を受けるように迫っても、
身がすくんだ本人は頑として動こうとせず。膠着状態だった。
本人の思いのたけを聞いたうえで、解決策を提示したら、気持ちが軽くなったと言って
その後は医療に身を任せた。
2か月半後、手術ではがんがとり切れず、抗がん剤も副作用で中断し、
髪が抜け手足がしびれた状態で来院した。
「げっぷが出て苦しいのであまり食べられない」とやせて気弱になっていた。
どうやら、娘に「げっぷなんて、おならと一緒だから気にするな」と言われたことが
「口からおならを出している」と誤解して、食事を控えていたらしい。
「それは飲み込んだ空気だから、気にせず食べれば無くなるよ」
と話したら、食欲が戻った。
その後は、便秘にまつわる訴えが続いた。
「癌が腸を塞いで便秘になっているのだ」と思い込んでいたらしい。
「下剤で下ったのなら腸は通ってるよ」と説明したら安心した。
訴えは、手足のしびれ、ゲップ、食思不振、便秘、頚肩こりぐらいで、
足のしびれ以外は鍼灸治療で改善した。
治療開始から9カ月後膀胱炎で発熱し入院となった。
その後は訪問看護師を派遣してもらって、自宅で緩和ケアを受ける事になった。
11.鍼灸師が癌患者にかかわる「メリット」
がんの怖さは、ギリギリまで気付かない事だ。だから早期発見がカギとなる。
手遅れになったケースの多くは、定期健診を受けていない人だった。
がんリスクの高い人には、検診を受けるメリットを私は強調する。
がんを不治の病としてことさらに絶望していたのは何だったのかと思うほど、
今の医療は頑張ってくれている。
おかげで、がんを取り巻く混乱も随分静まった。
死と直面した人の心理は、何とかしようとする興奮、うまくいかない落ちこみ、
そして静かな諦めの3段階で変化する。
その心理変化に合わせて心と体調をととのえ、生きる希望を支えるのは、
鍼灸師の最も得意とするところだ。
鍼灸は、がんを抱える患者さんの様々な愁訴と心の揺らぎを改善するのに、
すこぶる安全で効果的だ。
長い道のりではあったが、そう言い切れるところまで私は来た。
それを次の世代に伝えるのが、残った仕事だ。
人は誰も、いつかは死と向き合う。
けれど、その時襲い来る感情を、大切な家族に背負わせたいとは思わない。
医療者は誠実にかつ冷静に延命を摸索してくれる。
しかし、心のケアまでは望めない。
死と向き合いながらも生きる日々の愁訴を和らげ、
揺らぐ思いに耳を傾け、心に寄り添ってくれる存在は必ず必要になる。
鍼灸師はその時、代えがたい力をしなやかに発揮する。
私はそう信じて、この道を歩いている。
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