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熱心にお灸を愛する街・松山|二日灸の風習、お遍路と道後もぐさ、文学にも息づくお灸の歴史

  • 3 日前
  • 読了時間: 3分
高い石垣の上に建つ日本の城と、石畳の登城道を歩く二人の人物。周囲には緑と秋色の木々が広がり、静かな歴史風景が広がっている様子。
歴史ある城郭へ続く石畳の道を歩く人々と、季節の彩りが映える松山の風景

町内に一人は「お灸ばあさん」がいた“お灸の街・松山”

松山市は古くからお灸が盛んな地域です。

年配の方の中には、幼い頃に家庭でお灸をすえられた経験を持つ人が多く、町内には「お灸をすえてくれるおばあさん」が必ず一人はいたと言われています。


昔お灸は、灸師がツボを取ってあげて、すえるのは家族や近所に住む器用な「お灸ばあさん」 でした。

熱さと、やけどの跡を我慢すれば、お金もかからずに様々な病気を治せる優れた民間療法だったのです。

そういう意味で昔から松山の生活文化の中に、お灸は深く根づいていました。


季節の変わり目に行われた「二日灸(ふつかきゅう)」

松山では旧暦2月2日・8月2日にお灸をすえると、病気にかからず、その年を無病息災で過ごせる(効果が倍になる)と言い伝えられる「二日灸」の風習が広く行われていました。

冬→春、夏→秋という季節の変わり目に体調を整えるための養生法でした。


正岡子規と二日灸

松山を代表する俳人・正岡子規も幼い頃からお灸を受けており、俳句にも二日灸を詠んでいます。


- 花に行く足に二日のやいとかな

「2月2日にすえたお灸の痕が、桜の花を見に行く頃の足にもまだはっきりと残っているなぁ」という、元気に春を迎えた喜びを詠んだ句。


- 死はいやぞ其きさらぎの二日灸

西行が詠んだ「ねがはくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

(=桜の美しい如月に死にたいものだ)という句をもじって、

私は死ぬのが嫌なので、如月には二日灸をすえると詠んだ句

随筆『墨汁一滴』では、子ども時代のお灸について「灸を据ゑる時は僕は泣きもせなんだ」と語り、当時お灸が身近であったことがうかがえます。


道後温泉で見る“お灸の痕跡”

木造建築の重厚な屋根と装飾が特徴的な道後温泉本館の正面入口に、数人の来訪者が立ち寄っている様子。曇り空の下で建物の温かい灯りが際立ち、伝統的な温泉街の雰囲気が伝わる風景。
歴史ある道後温泉本館を訪れる人々と、趣ある佇まいが映える夕暮れの風景

現在でも道後温泉を訪れると、背中にお灸の跡が残る人を見かけることがあります。

松山の人々にとって、お灸は生活の一部であり、健康を守るための大切な習慣でした。


お遍路は“お灸とともに歩く旅”だった

四国八十八カ所霊場を巡るお遍路は、かつて修行の場として始まり、江戸時代には庶民にも広まりました。

当時は歩き遍路が主流で、「足三里に灸していない人とは旅をするな」と言われるほど、

胃腸を整え、足の疲れをとる三里の灸はお遍路の備えとして必須の条件だったようです。

今でも第51番札所・石手寺で「お灸接待」が行われています。私も何度かお手伝いでお遍路さんにお灸をすえるお手伝いをしました。


お遍路土産の定番「道後もぐさ(湯ざらし艾)」

道後温泉周辺では、遍路土産として「道後もぐさ」が人気でした。

松山は大阪方面からの折り返し地点、九州方面からのスタート・ゴール地点にあたるため、

- 自分の旅のため

- 家族や近所への土産として

軽くて腐らないもぐさは非常に喜ばれたと言われています。


港山駅前にあった「棟田もぐさ」工場

松山市駅から松山観光港方面へ向かういよてつ高浜線・港山駅前には、平成まで「棟田もぐさ」の工場がありました。

松山のもぐさ文化を支えた重要な存在です。


日本で唯一お灸をすえる病院で学んだ私(瑞穂)

白衣を着たスタッフが「鍼灸治療室3」と表示された扉の前に立っている様子。院内の静かで清潔な雰囲気が伝わる構図。
愛媛県立中央病院の鍼灸治療室前に立つ研修中の瑞穂先生

私は、日本で唯一お灸を研究する病院(愛媛県立中央病院東洋医学課鍼灸治療室)で

山岡伝一郎医師のもと研修を受けました。

多くの医師が「本当に病気を治す力を持っている」と称賛するお灸を多くの人に活用してもらえるように、米沢で頑張っています。

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